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01
2進法)は空色ではなく片手で31も数えられる方法

2008617

宇佐美 保

先日、久しぶりに中学校時代の親友2人と共におでんを突っつきました。

その1人は、西欧思想の根幹であるべきギリシャ思想に、世の中の目を向けるべきとの書を執筆すると語り、購入したばかりのソクラテスやプラトンに関する洋書を2冊手にしていました。

 

 そして、彼は、プラトンの「哲人による哲人政治」を語りました。

プラトンの師であるソクラテスは、民主主義の下「死刑」に処せられてしまったのですし、最近の日本では、小泉純一郎氏に踊らされて、民主主義選挙の名の下に大勢の「小泉チルドレン」などとケッタイな人達を選出してしまったこと、又、日本に限らず、民主主義の権化と自認しかねない米国の国民が民主的選挙(?)で選んだのがブッシュ大統領・・・そして、彼らが選挙で勝利すれば、評論家たちは“国民は馬鹿ではなく、実に利口である。だからこそ常に利口な選択をする” と臆面もなく彼らに対して提灯を掲げます。

ところが、国民の選択で選ばれた当人は、“国民の支持率など気にしていては政治などやっていられない”と藻嘯きます。

その上、大多数の議員の政治活動たるや、次の選挙に自分が当選する為の活動でしかないのですから、呆れてものが言えなくなります。

 

このような現状に辟易している私は「哲人政治」を待望したくなります。

 

 しかし、私にとっては「知識の宝庫」(勿論、「正義感の塊」でもあり「英雄」でもあり)、そして「哲人」とも思える彼が次のように言いました。

“故中村元先生は、『般若心経』に於ける「空」に関して、「なにもない状態」が原意であるが、
インド数学ではゼロ(零)を意味すると、解説しておられる。
般若心経の「色即是空」は、現在の01からなるコンピューター世界を見通していたのだ”

と。

 

 私は、彼の「色即是空」に関連する見解には反対です。

私は、コンピューターの世界よりも、次に掲げます宮沢賢治の詩集『春と修羅』の「序」の冒頭を連想します。

 

わたくしといふ現象は/仮定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明です

(あらゆる透明な幽霊の複合体)

風景やみんなといつしよに/せはしくせはしく明滅しながら

いかにもたしかにともりつづける/因果交流電燈の/ひとつの青い照明です

(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)

 

 そして、

コンピューターの01は、「空」だ「色」だの大それた存在ではなく、
(まるで、大相撲の星取表のような)「白丸」や「黒丸」でも代用可能なのです。

 

勿論、手の指の「曲げ」「伸ばし」でも良いのです。

 

 手の指を使って物の数を数える際、一般的には、手のひらが開いている状態(全ての指が伸びている状態)をゼロとして、親指、人差し指、中指、薬指、小指と順に追ってゆくと、12345までを数える事が出来ます。

しかし、この方法では、片手の5本の指では5までしか数える事が出来ません。

 

この場合の指の使い方(即ち、一度折った指は2度と勘定するのに使えません)は、西洋の将棋ともいえるチェスに置ける駒の使い方と似ています。

相手方から取った駒を自分の駒として使えませんから、駒は取られるごとに、その数はドンドン減ってしまいます。

 

 ところが、日本の将棋は、相手方から取った駒を、自分の駒として使え、双方で駒は何度でも遣り取りされて使われますから、使える駒の数は試合(対戦)の始めから終わりまで同じです。

この日本の将棋の駒のような指の使い方では、5本の指で31まで数える事が出来ます

 

 ここで、寄り道ですが、ソロバンに1から順に数を入れてゆく状態を思い浮かべてください。

1から9までは、「1の位」の玉を順に(5の玉もありますが)入れて行きます。

そして、10になると「10の位」の玉を入れ、その代わり「1の位」の玉を全部下ろします。

その後、11から19までは、又、「1の位」の玉を順に入れて行き、20になると「10の位」の玉をもう1つ入れ、先と同様に「1の位」の玉を全部下ろします。

このようにして、3040、・・・、90と入れて行き、99の次の100では、「100の位」の玉を入れ「10の位」以下の玉を全部下ろします。

このように、「上の位」の玉を入れるごとに、それ以下の位の玉を全部下ろす操作を繰り返す事で、少ない玉の数で、大きな数を表す事が可能となります。

 例えば、5桁(玉の数としては、9×545個)のソロバンでも、99999まで表現できます。

(このようなソロバンの玉の使い方は、日本の将棋の駒の使い方に似ていませんか?)

 

 しかし、チェスのように、一度入れたソロバンの玉を2度目には使えないとしたら、そのソロバンは玉の数としての45までしか表現できません。

 

 そして、話しが飛びますが、

各桁に1個の玉しかない、5桁のソロバンを思い浮かべ、
次の表のように、
このソロバンに
1から順に数を入れて行きましょう。

 

 

ソロバンの玉の状況(○:入れた状態、−:入れてない状態)

ソロバンに入れる数字

5桁目

4桁目

3桁目

2桁目

1桁目

0

1

2

3

4

5

6

7

8

9

10

11

12

13

14

15

16

17

18

19

20

21

22

23

24

25

26

27

28

29

30

31

 

 

 

このように、各桁の玉が1つしかない5桁のソロバンでも、0から順に31までの数を入れる事が出来ます。

 ですから、

この(特殊)ソロバンを片手の指に置き換えれば、
片手で、0から31までを数える事が可能となるのです。

 即ち、親指、人差し指、中指、薬指、小指を
順次、先のソロバンに於ける、
1桁目、2桁目、3桁目、4桁目、5桁目の玉と看做せば良いのです。

 

 例えば、親指を曲げる事は、1桁目の玉を入れることであり、親指を伸ばす事は、1桁目の玉を下ろす事、・・・と看做せば良いのです。

 

 何故、5本の指を用いたこのような方法で、0から31即ち、32この数字を認識できるかと申しますと、1本の指で、曲げると伸ばすの行為だけで、2つの数字が認識可能です。

このような5本の指の状態を全体として認識する事で、32の数を認識できるのです。

即ち、1本では、曲げ伸ばし行為で2

この1本で数えた2の状態に対して、2本では、2本目の指を曲げた場合と伸ばした場合の2種類がありますから、数えられる数は、(1本目で数えられる数)×(2本目で数えられる数)=2×222乗=4 となります。

3本の指で数えられる数は当然、

1本目で数えられる数)×(2本目で数えられる数)×(3本目で数えられる数)=

2×2×223乗=8

4本の指で数えられる数は同様に、

1本目で数えられる数)×(2本目で数えられる数)×(3本目で数えられる数)×(4本目で数えられる数)=2×2×2×224乗=16

従って、5本の指で数えられる数は

1本目で数えられる数)×(2本目で数えられる数)×(3本目で数えられる数)×(4本目で数えられる数)×(5本目で数えられる数)=2×2×2×2×225乗=32

となるのです。

 

 ですから、n本の指で数えられる数は、2n乗と言う事になりますから、次の表が得られます。

曲げ伸ばしする指の数と数えられる数の関係
指の数 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20
数えられる数 2 4 8 16 32 64 128 256 512 1024 2048 4096 8192 16384 32768 65536 131072 262144 524288 1048576


 この表から分かりますように、両手の10本の指だけでも、1024も数えられます。

更に、足の指の10本を加えて、20本の指を使えば、1048576も数える事が出来ます。

 

 驚くべき事です。

私達はもっと手足の指を活用すべきなのかもしれません。

(因みに、01表記はデジタル(digital)表記と言われていますが、digitalの語源はギリシャ語の“指の”にあるそうです)

 

 更に、今までの電気の理論をほとんど全て覆して、新しい理論を構築した自著『コロンブスの電磁気学』を購入して頂いた数は、従来通りの数え方では手足の指20本で数える事が可能かもしれません。

とても残念な事です。しかし、宮沢賢治の作品で彼の生前出版された唯一の作品『注文の多い料理店』よりは沢山購入して頂いているようですが、少なくとも、何とか、1つ玉ソロバンのように、20本の指を用いて数える数(1048576)程は、世に出ることを願っているのであります。

 

 此処までは、単に数を数えただけですが、この数は、簡単に、漢字にも化けます。

今のパソコンで文章を書く前、ワープロを用いて文章を書く際、平仮名から直接漢字変換できなかった文字は、「文字コード表」を用いて、このコード(数値)を入力した後、漢字に変換していた事を思い出します。

即ち、この数値の一つ一つに文字を割り当てれば、漢字のコード表が完成するのです。

又、これらの数字の一つ一つに国民全員の名前を割り振れば、これらのなんでもない数字群は国民全員に化けてしまうのです。

勿論、これらの数字は、種々の現象にも割り当てる事が可能ですから、現象にも化けましょう。

そして、どんなものにも化けられましょう。

 

 このような(血生臭さまでも感じられる)01の社会が、そして、又、01でなくても、指を伸ばすか曲げる、或いは、白丸か黒丸かといったように、2種類の異なる現象の綾なす世界でしかない世界が、般若心経の「色即是空」の世界に相通じるとは、私には思えないのです。

 

 ですから、私の偉大な哲人も、完全無欠ではないのかもしれません。

従いまして、「哲人政治」が実現するとしても、ひとりの哲人ではなく数人の哲人が力を合わせる「哲人政治」を夢見さえします。

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